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 社長紹介

鷲田和久KAZUHISA WASHIDA

1977/8/22
福島県南相馬市出身

背骨コンディショニング協会 認定パーソナルトレーナー

社長ブログ


幼少から高校生の頃

塾以外の習いごとは多いほうだった幼少の頃。

書道 6歳から18歳まで12年間
ピアノ 4歳から18歳まで14年間
剣道 10歳から16歳まで6年間(初段)
居合道 13歳から16歳まで3年間(初段)

出品にも挑戦していくつか受賞。
■発明工夫展 入賞3回
小学校1年(市にて金賞)、中学2年(市にて金賞、県にて入賞)

■書道 小学校から高校3年生まで出品する全てのコンクールで入賞
学生最高段位の「特待生」

■島村楽器主催の楽曲コンテスト『トレコン94』最優秀賞
高校2年生で、初めての作曲と編曲で、レコーディングテクニカル賞 優秀賞を受賞

高校は理系だったが進路に迷っていた3年生の11月、大学選びの雑誌で「学生社長 年商3000万円」という大きな見出しで多摩大学が紹介されており、父も叔父も商売をやっていたので経営学部が面白そうだ!と気付き進路変更。
文系の勉強をしてこなかったが、経営学部では多摩大学が唯一、センター試験で英語と数学だけで受験をすることができ、入学できた。


大学生の頃

1996年 多摩大学経営情報学部 入学
入学から半年くらいはサークルにも顔を出していたが、時間の無駄と感じてしまい辞めた。
バイト経験は、大学1年の時に塾講師を1年間、大学4年の時にスターバックスコーヒーで半年のみ。

学生時代に起業を模索

大学1年の頃から起業を模索して、企画書を作っては持ち込みして追い返され、裏付け取るために大量アンケートを取ったり、アドバイスを求めるために経営者に突撃電話したり、書籍の著者に電話したり、何かをしたくて行動していた時期。当時の企画書が残っているが、今見てみるとこんなひどい企画書で、よく堂々と持って行ったなと思うのと、よくこんなのでお話を聞いていただけたなと思う感謝しかない。

北矢行男 多摩大学名誉教授

大学2年の12月に、文具雑貨のインターネット通販を始める。
商材集めに、イギリスのメーカーに直接交渉に行ったり、オーストラリアのメーカーにも直輸入の直接交渉や工場視察に行った。オーストラリア大使館も間に入ってくれて、協力を惜しみなくしていただけたことに感謝。

大学3年、現在は多摩大名誉教授となった北矢行男先生との出会い。その後の私の公私の人生の全てに関わっていただけている。先生がいなければ今の姿は絶対にありえない恩人。


20代前半

学生起業で就職せずに会社設立するが多難

大学卒業後も文具雑貨のネット通販を継続。
私名義で600万円を父から借金をし、文具メーカーに400万円を出資をしてもらい2000年9月25日(23歳)会社設立。

しかし、この文具メーカーから受託する予定だった事業が外されてしまい、期待していた売上が取れなくなり、またネット通販も思うように売上が上がらず、1年後には大赤字。

私だけが文具メーカーへ移籍して会社を清算するように促されるが、自分だけが生き残る道は考えられず、まだ諦めたくない、という思いもあり、結果的に株を譲渡してもらい資本関係の解消になる。

2001年9月(24歳)、「お店メール.com」サービス開始。
文具雑貨店を営んでいた父から「店内で携帯電話を使っているお客が多いが、あれを何とかできないかなあ」という一言から、携帯メールを使った販促を考案。
ネット通販で培ったメールマガジンのノウハウを小売店に活かせる!と判断しシステムを自社開発。メールマガジンの原稿作成代行も行う携帯メール配信ASPとしてサービス開始。
私自身はエンジニアではないため、システム開発は外注を使わざるをえず、資金が全くない中で始めた事業ゆえに、広告費捻出も苦労して、悪戦苦闘が続く。

業種は幅広く対応したが、どの業種も薄いノウハウしか蓄積できず、また振り返れば料金設定の裏付けはなかったので、受注は困難続きだった。

大学卒業後も北矢先生には定期的に報告のための面会をいただきアドバイスをもらっていたが、「コアコンピタンスは何だ?なぜお客はあなたの会社から買わなくてはならないのか?」という問いに答えられず、「あなたには出資なんて考えられない」と言われ続ける。

無休、無給、預金残高1万円を切る、何をやってもうまくいかない

『coming-soon』事業を発想するに至る重大な出来事。
それは「お店メール.com」で取引のあった一部上場企業の紳士服チェーン店。そのマーケティング担当者にこんなことを言われたこと。

「社長、ビジネスを確実なものにするには、特許ですよ。特許。お店メールは、特許を取らないのですか?」

特許なんて全く考えておらず、これを機に特許への意識が高まる。

そして、もう1件。
IT業界ではない方と協業のための商談中に、私の勉強不足ゆえに回答に窮する場面があった。この時の恥ずかしさは今でも鮮明に覚えている。赤字続きで視野が狭くなっており、勉強不足でしかも柔軟な発想も出なくなっていることを痛感し、仕事から離れて、書籍や文献を読み漁る。

それから10日後、文献のある一文から「パッ」とひらめく。
事業ドメインの「選択と集中」、そして「特許」を取得し知的財産を守ることに重きを置き、再起をかけ『coming-soon』事業の立ち上げに奔走を始める。

しかし、相変わらず資金繰りがあまりにも厳しい。この時は厳しいどころじゃなく会社維持なんて不可能な状態だった。
そして将来有望であった会社を辞めてまで当社の役員として中途入社してくれた大学時代の同級生がいたが、彼には辞めて他の会社で働くことを促し、創業メンバーの橘高を会社都合解雇にして、少額のバイト代を払い、失業保険でつないでもらった。
最低最悪の時期。


20代後半

資金集めのチャンス到来

2002年(25歳)には美容室予約システム『coming-soon』を考案し、3ヶ月後、ビジネスモデル特許出願。
これを機に、北矢先生から100万円の出資と、多摩大総合研究所で開催していた勉強会でのプレゼンのチャンスをいただく。
準備期間は3週間、主に経営者が50~60人ほど参加していただだろう会場で、1時間の事業プレゼンと30分の質疑応答を行う。
この3週間は事業計画書を練りに練り、プレゼンの練習も何度も何度もやり、当日は時間配分通りにやるだけやれた。
そして、ここで600万円の出資をいただくことが決まる。
この嬉しさで震えが止まらなかった。

「彼に出資しても良いと思う人はいませんか?」先生の問いかけに、会場から1人すぐに手があがる。
コミー株式会社の小宮山社長だ。
そして、もう1人名古屋でスーパーのチェーン展開をしていた社長。

後日、小宮山社長のもとにご訪問すると、「いくら必要ですか?」と聞かれ、資本政策のこともあり500万円をお願いした。
決算書をお持ちしていたが、大赤字の決算書も見ずに、その場で即答をもらえたことが衝撃だった。
そして、事業計画のことより、「顧客満足とは何だ?」「製品の品質は絶対的な最高品質を保たなくてはならない」「大きな決断をする時はどうする?何を根拠に決める?」「メーカーから見たユーザーは2人いる、買ってくれる企業と使ってくれる人だ。買ってくれる企業ばかりを見るな。」など、時間を割いて大切なことを教わった。そして「若者の野心ではなく、共に学び、共に喜ぶ」という言葉をもらった。

この光景は今でも変わらない。
決算書をお持ちしてもそれは横において二の次。顧客と品質を最重要視する姿勢を教えていただける貴重な株主。

「志が高い個のサロンを徹底的に支援する」というのを『coming-soon』のコンセプトに、強きを強くするシステムではなく、志を高く経営しているサロンオーナーと個性のあるサロンの徹底的な支援を目指すことに決めた。

リリースはできたものの、相変わらずの資金難が続く

これを機に、3ヶ月の失業保険でつないでいてもらっていた創業メンバーの橘高を戻す。ちょうど支給が切れるタイミングでギリギリセーフ。
しかし、システム開発には困難を極め、外注先とのトラブルにも度々見まわれ、ミニマムスタートをするはずだったのにリリースまでに1年を使ってしまう。

2003年11月(26歳)に『coming-soon』をリリース。
ストック型のASP事業は、先行投資が大きい。システム開発、販促広告費が重くのしかかり、相変わらず資金繰りに苦労する。

この時代は、私と創業メンバーの橘高と私の妹の3人でやっていたが、私が開発と販促と営業をしながら、投資してくれる方を回り続けるという精力的な日々を過ごす。

この時の資金集めでは、上場をも考えてプレゼンをして、出資をしてくれそうな方を回りまくり、その一つに北矢先生から紹介してもらったマザーズ上場企業に出資のお願いもしていた。プレゼンが功を奏し、その企業からは2000万円の資金調達に成功するが、出資を受けることに悩みに悩んで、結果的に直前で長期借入に変更をお願いした。これにより返済は重くのしかかるが、どうしてもグループ会社入りすることに、そして子会社化されることにしっくり来なかった。(それから数年後、結果的にこのマザーズ企業は業績悪化によりファンドに買収された。あの時に子会社になっていたら今頃どうなっていたのだろう・・・。)

商品開発、マーケティング、営業をやりながら資金集めに奔走の日々

莫大な広告費と開発費が重くのしかかり、損益分岐点がなかなか越えられず、その後も、資金集めに奔走する。
2006年(28歳)の年明けで、出資に応じてくれたお一人が松尾ジンギスカンの松尾社長(現在)。

数千万円の希望額を満額回答で応援していただけることになり、感謝と共に、この期待に応えなくてはなならないと改めて決意をする。松尾社長は、月次で報告する予算と実績を厳しく指摘し、”善良な外圧” として私のケツ叩き役になっていただいた。その後も追加投資をもらい、他に北矢先生などからの追加投資もあって、現在も”善良な外圧”として支援いただいている。

人づてや北矢先生の紹介などもあり、窮地に立たされると手を差し伸べてくれる人や会社が現れ、多くの方々に助けていただいたことで、資金だけでなく、考え方、知恵、アイデアなど多くの方からの支援により当社は成り立っていることを改めて感じる。

学生時代を含めた20代はネガティブなストレス過多な経験も非常に多く、これがその後の人生に大いに役立った。
特に、資金繰りによるストレスは強く、眠れない日が続き、睡眠導入剤を使っても眠れない日もあり、酒と睡眠導入剤の合わせ技をやっていた。
そして、強烈な頭痛と腰痛、肩こりに悩まされていた時期。
(これはその後に出会う日野先生の背骨コンディショニングで見事に解消してもらい、今では私自身がそのパーソナルトレーナーにまでなってしまった。)

父と母は、この頃8:30~22:30まで年中無休で商売をやっていた。
私が両親に借金をしていた身分で、両親より短時間労働はありえないと思い、私は最低でも8:00~23:00くらいまで働き、土日祝日休むこと無く働いていたが、私が28歳以降、父が病気による入院を繰り返すことをキッカケに、健康について考えるようになってきた。

単月黒字、通期黒字が達成できるようになってくると、他の事業にも手を出したくなってくる。
興味がつきないのでよそ見をしだす悪い性分。

その度に北矢先生から、「なぜお前がその事業を始めなくてはならないのか?コアコンピタンスはなんだ?なぜお客はあなたの会社からそれを買わなくてはならないのか?2つも3つも並行できるほど能力に余力はあるのか?」
至極まっとうな指摘を受ける。

大切なことを何度も言われているのに、過信で盲目になる。
1つのことに徹底的に集中することの大切さを改めて気付かされる。


30代前半

数字だけを追いかける規模拡大を目指すことに終止符、7つの基本コンセプトをつくる

売上が1億円を超えれば今の悩みは消えているんだろうなと思っても消えず、2億円を超えても、3億円になっても・・・結局悩みは消えない。
新たな悩みが出てきて、新たな課題が出てきて、思い描いていたような極楽快楽の状態になることはない。

売上を追いかけ続ける、規模を永遠に拡大することにどんな意味があるのだろうか?そう考えだした時期。
「7つの基本コンセプト」のひとつにむやみやたらに「規模拡大を求めない会社」と入れた。
私にも会社にも事業にも最適規模があるはず。むやみやたらな売上目標は限りがない。心の充実、生活の充実、顧客への貢献に重点を置くことにシフトしていった。株主から理解もいただけた。

2010年4月(32歳)に、天外塾で天外司郎先生から健康維持のためにゴッドハンドを紹介されたのをキッカケに、背骨コンディショニングの日野先生と出会う。日野先生に背骨矯正と体操指導をしてもらってから激的な体改善ができ、高校生から悩まされていた頭痛、腰痛、肩こりは解消されてきた。この時には、私が指導者側になるとは想像もしていなかった。

2010年8月(32歳)
株主・顧問である北矢先生の何気ない一言がキッカケで、海外出産を考え出し、悩みに悩んだあげく、米国にて出産から育児を3ヶ月やることに決めた。

ちょうどこの頃、「7つの基本コンセプト」を策定中で、その中の1つに、今までの組織原理を超越した「時間と空間の制約を超えた自律・分散・協調の会社」というのを考えていた。これを身を持って経験できる大いなるチャンスであると考え、チャレンジすることにした。

滞在の場所はハワイを選択。会議はSkypeで行い、日常はチャットやメールなどで業務を遂行。
育児の楽しさを実感できた。

当時のブログ投稿はこちら
イクメンプロジェクト1
イクメンプロジェクト2
イクメンプロジェクト3
イクメンプロジェクト4

2012年6月(34歳)、第二子誕生。育児が楽しくて楽しくて拍車がかかる時期へ突入。

当時のブログ投稿はこちら
ギリギリ、バタバタ・・・二人目出産の裏側

日本初なのか、ビジネスモデル特許を2つ取得、その確率0.64%

2011年6月のある日、特許出願でお願いしていた弁理士事務所から封書が届く。
中を見ると、特許庁から届いた書類を転送してくれた。
「特許査定」と書いてある書類だ。

「この出願については、拒絶の理由を発見しないから、特許査定をします。」

全く日本語の意味が分からない。
「特許査定」を検索エンジンで調べてみると、「特許をすべきという審査官の最終判断」とある。これを読んでもよく分からず、添付されてきた書類には特許料納付のお知らせもついていた。そうか、これは特許が取れたということか!!やっと理解ができた。

ここまでおよそ15分。
半信半疑でようやく特許が取れたということに気づいた。
でも、なぜか喜ぶに喜べない。ぬか喜びだったらどうしよう、と変な気も回っていた。
私としては、弁理士事務所から「鷲田さん、おめでとうございます!取れましたよ!」と電話の一本があった上で書類が届くくらいの演出が欲しいところだったが、日本では指折りの大きな弁理士事務所。そんなことやってたら毎日電話ばかりの仕事になるのか・・・とは思うが。

そしてその半年後、もう1つ、特許が取れた。
ビジネスモデル特許が取れる確率は8%程度だと言われている。それが2つとなると0.64%の確率だ。
弁理士と話をすると、1つのサービスでビジネスモデル特許を2つ取るというのは聞いたことがない、という。
日本初なのかもしれない。

日経トップリーダーに掲載される


30代後半

背骨コンディショニングで日野先生に背骨矯正と体操指導をしてもらってから頭痛、腰痛、肩こりから開放された日々を過ごしていたが、肩が弱く、子どもたちの抱っこで四十肩になりつつあった。
日野先生に腱板断裂を警告され、やっと重い腰を上げて筋力アップのトレーニングを開始したのが2015年3月(37歳)。

ジムでパーソナルトレーナーをつけての筋力アップトレーニングを継続してできるようになり、また父を癌で亡くしたこともあり、体のことや健康に強く意識を向けるようになる。

2015年10月(38歳)、背骨コンディショニングの勉強を開始。
2016年4月、背骨コンディショニング協会認定パーソナルトレーナーに合格。

子どもたちと家族と自分の健康の維持継続のために、体の仕組み、食事、運動を勉強をしたいと思ったのがキッカケで、そして従業員の健康維持の福利厚生のためにも貢献できるよう日々勉強を継続中。

将来的には、当社と取引のあるサロンのスタッフの方々に、肩こり、腰痛など体のあらゆる不具合を解消するこのメソッドを提供できるように仕組みを作りたいと考えているところ。

さらに、スタッフの方々がこのメソッドの効果を感じ、サロンが提供している「美容」のくくりに健康も含まれるならば、来店するお客様にも健康を含めた美を何らかの形で提供できるようにしてみたい。